斎藤裕さん拉致事件

斉藤裕(さいとうひろし)さん
昭和25(1950)年9月17日生まれ。当時18歳。北海道稚内市在住。高校3年生
昭和43(1968)年12月1日夜7時頃、北海道稚内市の自宅から「友人宅に行ってくる」と言って出かけたまま消息不明。友人宅には行っていない。当日は晴天で積雪はなく、気温も8度くらい。服装はタートルネックのセーターに学生ズボンという姿。警察に捜索願を出し、駅も探した。また家族で海岸を探すが手がかりなし。
失踪前、友人に「地上の楽園というところがあるんだな」と言っていた。アルバイト先の商店の向かいに朝鮮総連幹部の経営するパチンコ店があり、そこが関係しているのではないかと見られている。
ある脱北者が「1978年5月、朝鮮人民軍偵察指導局の日本語教官、79年には秦川の軍官学校で日本語の教官をしていた」と証言。また金国石(2000年に韓国に亡命した元・北朝鮮人民軍大尉)氏によると、「1990年7月から1992年8月までの間、馬東煕(マドンヒ)大学の偵察指揮仮定でときどき見かけた」と証言している。
昭和43(1968)年2月には富山で水島慎一さんが失踪しているが、翌年失踪した今井裕さんも含め3人は高校3年生で就職も決まっており、失踪する理由が存在しない。
神谷慶五郎さんほか拉致事件

神谷慶五郎(かみやけいごろう)さん
明治45(1912)年3月5日生まれ、当時55歳。北海道雄武町在住。漁師

神谷圭剛(かみやけいご)さん
昭和16(1941)年3月20日生まれ、当時26歳。北海道雄武町在住。漁師

神谷礼人(かみやのりひと)さん
昭和23(1948)年4月11日生まれ、当時19歳。北海道雄武町在住。漁師

神谷速水(かみやはやみ)さん
昭和26(1951)年1月9日生まれ、当時16歳。北海道雄武町在住。漁師
昭和42(1967)年11月7日、父・神谷慶五郎さんは所有する漁船「圭運丸」(6トン)に3人の息子(圭剛さん、礼人さん、速水さん)とともに乗船。午前6時頃に北海道雄武町元稲府漁港を出港し、港から7キロ付近にてイカ底建て網漁を操業。帰港する他の僚船とすれ違って漁場に出たまま失踪。当時はベタなぎだったが、潮の流れが速く、他の僚船は操業を中止。
現場を目撃した人物はおらず、付近に他の船が存在したかどうかも確認されていない。船体は付近の海底にて発見されたものの、引き上げ作業に失敗。船の油や残留物などが雄武町付近の海岸でも発見されたが、乗組員4人の遺体は発見されないまま捜査は打ち切られた。船も引き上げられなかった。
のちに「元稲府漁港から西北約2キロの距離にあるウエンコタン岬の東側で圭運丸が3隻の船に囲まれていた、また当日の午前11時頃、自宅の近くで『神谷の船が転覆した』と言った見知らぬ男がいた」との証言があった。当時、雄武町には北朝鮮工作員・高大基とその妻になった渡辺秀子さんがいた。
荒木和博
特定失踪者問題調査会代表、拓殖大学海外事情研究所教授。昭和31(1956)年東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。民社党本部書記局勤務、現代コリア研究所研究部長を経て、拓殖大学海外事情研究所専任講師となり、助教授を経て、平成16(2004)年より教授。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)の活動を経て平成15(2003)年1月、特定失踪者問題調査会を立ち上げ代表に就任。元予備陸曹長。予備役ブルーリボンの会代表
葛城奈海
ジャーナリスト・俳優。防人と歩む会会長。皇統を守る会会長。東京大学農学部卒業後、自然環境問題・安全保障問題に取り組み、森づくり、米づくり、漁業活動等の現場体験をもとにメッセージを発信。2011年から尖閣諸島海域に漁船で15回渡り、現場の実態をレポート。北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」でアナウンスを担当。日本文化チャンネル桜「Front Japan 桜」レギュラー出演中。元予備三等陸曹。予備役ブルーリボンの会幹事長